塩の日という記念日の由来「敵に塩を送る」のエピソード

塩の日という記念日

1月11日は「塩の日」です。

この日が塩の日に制定されたのは、「戦国時代に上杉謙信が武田信玄に塩を送ったという逸話」からきています。

「武田信玄の領地に塩が1月11日に到着した」ことから1月11日を「塩の日」と制定したとされています。

塩が到着したとされる長野県松本市では、この日に合わせて「塩取り合戦」などが行われるお祭りが開かれています。

「敵に塩を送る」のエピソード

武田信玄の領地は甲斐の国と信濃の国で、現在の山梨県と長野県です。

どちらも海に面しておらず、領地内では塩が取れません。

そのため、他国からの流通に頼らざるを得ない状態でした。

このころ、甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏は三国の同盟を築いていたのですが、1560年に駿河の今川義元が桶狭間で織田信長に討たれたのをきっかけに、今川氏の勢力は急激に衰えていきます。

戦国時代は同盟と裏切りの連続の時代でしたから、これを好機と見た武田信玄は織田信長と通じて今川氏を滅ぼす姿勢を見せ始めます。

これに対して今川氏は、甲斐の国への塩の流通を止めて、武田氏を困らせようと目論みます。

現在でいう金融制裁のような外交術です。

すると今度は相模の北条氏が武田氏への圧力に同調し、今川氏とともに塩止めを行います。

ご存知の通り、人間は塩無しでは生きられません。

この外交政策によって甲斐の国に塩が入って来なくなり、今度は武田信玄が困った状況に陥ります。

この時に、武田信玄最大のライバルであった上杉謙信が、「私はそなたと戦いで決着をつけるつもりである。戦いとは関係ないところで脱落してもらっては困る。」ということで、領土の越後で取れる塩を送ったというエピソードがあります。

この話から「争っている相手が争いの本質でないことで困っている時に、その部分に関しては援助を行う」という意味の「敵に塩を送る」という故事が生まれています。

有名なエピソードだけど創作の可能性が高い

この上杉謙信と武田信玄のエピソードは有名ですが、後世の創作の可能性が高いです。

実はこの話を裏付ける資料は何もありません。

今川氏と北条氏が塩を止めたところまでは本当のようですが、上杉謙信が塩を送ったという記録も無ければ、武田信玄が塩を受け取ったという記録も確認できません。

実際は、「駿河と相模から塩が入ってこなくなったけど、上杉領の越後からの塩は止められることがなく入ってきた」というのが真実であるとの見方が有力だとされています。

それでも最大のライバルを兵糧攻めにできるチャンスに、その手段を取らなかったのは、「義の人」として名高い上杉謙信らしいと言えるかもしれません。